主観、客観
私はきちんと言葉を喋れているのだろうか?
それが一番最初の疑問だ。
小学校低学年のころ、言葉がうまく使えなかった。
お昼休みや掃除時間に、特別学級へ通い、「だ」と「ら」、「で」と「れ」の区別などを繰り返し、繰り返し教えてもらっていた。
人が喋った言葉を鸚鵡返しに発音することはできるけれど、ラクダの絵を見せられ、これは何でしょう、と聞かれると困ってしまう。
「だくだ?」
小さな声でたずねる。
それまで私は、自分が間違った発音をしている自覚が無かった。
その特別授業中、テープでとった自分の言葉を聞いて、初めて人との違いに気がついた。
やたら優しい先生との単調な言葉遊びを通して、おそらく1ヶ月もたたずに、私は使い分けができるようになったと思うけれど、結構な衝撃を私は受けたのだ。
トラウマと言っては言い過ぎなのだが。
時々、無性に不安になってしまう。
私は今、本当にきちんと言葉が喋れているのだろうか。
自分で描いた絵が、とても素敵に見えるように、言葉も自分の脳で認識するときにねじまげられて、(というより、修正されて)しまっているのではないだろうか。
客観的に判断する方法がある。
たとえば、絵なら、紙を裏返して透かして見るのだ。デッサンの狂いがわかるだろう。
言葉ならテープに録音してみれば良い。
自分がどんな発音で、どんな声で抑揚で喋っているのか、外から聞き取ることができる。
親さえも注意してくれなかった、その発音の間違いを、自分で発見することができるのだ。
(しかし、両親は何を考えて、オカシナ言葉を喋る私を放置していたのだろうか。楽観的に、いずれ治るさと考えていたのなら良いけど)
人の間違いを指摘するのは勇気の要ることで、いや、勇気というより、度胸?
だって、その相手に恥をかかせてしまい、嫌われる可能性も少なくないわけで、そのようなリスクを普通、人は負いたがらない。
つまり、自分の能力は、なんらかの手段を用い、自分で測らなければならないのだ。
けれど、疑問に思うことが無ければ、能力なんて測ろうとするわけもなく。
自分で「正しい」と思い込んでいることが、他人の考える「真実」とは大きくずれていることが、往々にしてあるということ。
怖い。
私は自分のことを有能だと思い込んでいるが、それは真実なのだろうか。
自分のことを、24歳で、頭がよく、心の優しい、誠実で、セクシーではないが竹を割ったような性格とも言えない中途半端な、感受性だけが豊かな女性だと思い込んでいるが?
うむ。