喋れない女
「あ、すみません。ええと、なんだっけ……ふがふが」
彼女はひとりで仕事をしている。自宅を事務所として、一日黙々とパソコンを相手に格闘しているのである。ほとんどの打合せはメールで済まし、緊急のときだけ嫌々電話を手に取る。軽いヒキコモリだ。外出し誰かと会ったり、会話をしたりする機会が極端に少ない。
人間、喋らないと舌が退化する。
彼女は人と会ってから最初の三十分、ひとりで喋っては空回りを繰り返す。普段ひとりきりな彼女は会話をしたいし、相手が退屈したらと思うといても立ってもいられない。そして何やら考え込む。どうして自分は会話が下手なのかと、敬語もうまく使えない、気の利いたことも言えない、舌は何度噛んだっけとひとり煩悶するのである。
まともに自分のペースを取り戻すまでおよそ一時間。会話の歯車が噛み合ってからの彼女は、人を笑わせることもできれば、激しい突っ込みを入れることもできる楽しい相手である。そこにたどり着くまでは少々辛そうだが、わたしが思うに「うまく喋れない」ということは既に彼女のアイデンティティの一部だ。煩悶とそれを乗り越える姿が魅力なのだ。
慌てて喋っている途中に、頬の内側の肉を噛んでフゲ! と言ったり、眉根を寄せて小さな声で、自分が面白くない人間であることを謝罪し始めたりだ。あるいは誰かを笑わせることができたら、しばらくはずっと機嫌が良いとかだ。それが彼女だ。
「すみません」と「ありがとう」が会話の端々に頻出する。ひょっとしたら心の底に、こんなわたしですみません、わたしと話してくれてありがとう、そんな弱い彼女がいるのやもしれぬ。わたしと話ができるなんてキミは幸福だぐらいの気持ちでいて良いと思うのだが。
「あ、すみません。ええと、なんだっけ……あー、もう。ニッポン語ワカリマセーン」
いつか喋り疲れ、日本生まれ日本育ちの彼女がそう言って逃げるなら、付き合おう。言葉のいらない世界へ。