2006年 08月

ない。

届いたと思っていたものが届いていない。
のではなくて、本当は、届いたなんて思ったことはない。

真実を推測することもできない遠い世界のお話です。
たとえば空気を振動させてもそれが届くまでに何億光年、ソラを辿らねばというようなお話です。真空で音はどうなるのでしょう。

音楽が止まって1時間が過ぎた。エアコンを止めて30分が過ぎた。わたしは時間の計り方を他にも持っている。

やっぱり、わたしは届いたと思っていた、のかもしれない。

やわやわと

ここはとても静かな場所です。
音も無く、きみも無く。ただ時折、猫の鳴くのみ。
灯りをつけず、手を伸ばして誰もいないのを確かめ、足を伸ばして猫のいるのを確かめ、猫の気分によっては噛まれたり、舐められたり。
白いシーツと黒い猫。タオルケットの肌触りはさらさらとしてやわやわとして心地よいね。
幸福に見えるだろうか。あるいは寂しそうだろうか。感情はありそうだろうか。
ただ生きているだけに見えるだろうか。

お盆のあたりのこと。

よもぎ

8月の中旬のある日、よもぎさんがひとりでお留守番とのことだったので、お世話に行った。そのときの写真である。
彼女は相変わらず人懐こく、相変わらず元気で、ちょっとだけ凶暴になっていた。
高く大きな声で鳴くときの必死そうな顔はまだまだ子どもで、愛しかった。

家はわたしの居た頃とは当たり前だが変わっていて、わたしの仕事場だった部屋にはソファが置かれ、くつろぎスペースになっていたし、キッチンもリビングも、すべてに馴染めない違和感を感じた。

最後の2ヶ月ほどは、わたしはその家で一人で暮らしていた。ひとりと2匹で。
その頃、わたしはその家とすごく親密だったはずなのだけど、明け方に長い散歩に出る癖と、外に出たら帰りたくなくなる気持ちは、その家を嫌いじゃない、怖くないという感情とは別のところで生まれていたのだと思う。

1時間ほどよもぎさんと遊んだり、ごはんやトイレの世話をした。
よもぎさんはわたしが去るとき、あの最後の日と同じ表情で同じ廊下の奥から顔をのぞかせていた。それを見るわたしの感情が変わったかどうかはわからない。よもぎさんは、「わたしの猫」ではなくなったけれど、愛しさに変わりはない。変わりないけれど、よもぎさんのために死ねるかと言われると考えてしまう。
それが、「わたしの猫」かそうでないかの違いなのかもしれない。極端な例だけどね。

鍵をかけて、マンションの出口でふと思った。
「郵便物も中に入れておいたほうがいいかな」
だけどわたしはその家の郵便受けが、縦横に並ぶ銀色の四角のうち、どれだったかさえ、忘れていた。

これはこれで

なるほど。これはこれでけっこう辛いのかもしれない。
でも大丈夫でしょう。
わたしの言葉はどこまで通じているのか。

さっきからお腹が痛い。
お風呂に入った。今から何か買いに行く。何だっけ。詳しくは忘れました。
痛みは少しずつ消えていく。

いつも後悔したり反省したりしている。もっとうまく立ち回れ。ぱーそなるぶらんでぃんぐだよね。わたしは人にどう見えているのだ。

わたしが大丈夫と言っているときって、自分に言い聞かせているときが多い、って今頃気付いた。
自覚は大切か。それとも知らぬが仏なのか。良いではありませんか。自分を洗脳しましょう。言霊が助けてくれるでしょう。
昼、少し眠ったとき、よくわからない哀しい夢を見ていた。

karaoke japan

サラリーマン的なカラオケは苦手。上司と部下と同僚の駆け引きみたいのが仄見えて嫌。その芸は好きでやっているのかと、痛々しく。
笑うほうも必死で笑っている。
誰の前でも態度が変わらないような人が数人いたので、救われたけど。

内輪の数人で行くぐらいがベストだと思うんだ。好きな歌を、好きに歌う。飲みたければ飲むし、笑いたいときに笑う。