2007年 11月

つい

0か1かで考えてしまいがちだけど、そうではないんだな。

0の次が1で、1の次は2だ。2の次には3があって、そんなふうにどこまでも数字は続けることができる。
だいいちここは、0と1しかない世界ではないのだ。

嫌なこともあったけれど、良いことのほうが多かった。
未来にはすごく嫌なことが予定されているけど、すごく楽しそうなことも予定された。

仕事も楽しいし、恵まれているなと思う。

生きよう。

と言いますか、

考えすぎているわけです。わたし。

考えても詮無きことは、流れにまかせるのが一番なんだ。
考えるほどに間違ってしまう。

求められたとき、与えたいと思ったら与える。
去るならば見送る。

すべて基準は、言葉ではなくて思考でもなくて、行動だとわたしは学んだはずだ。
何かが起こったとき、自分がどう反応するのか。
人がどう反応するのか。
考えても仕方が無いことだ。

言葉に重きを置かないように気をつける。
過剰な期待も、過剰な失望も、そこから生まれるものだと思う。

好きです。会いたいです。

そんな言葉を言われるようになっても、それが本当だと思うことが難しい。瞬間的には真実であっても、それが続くということが信じられない。
まっこうから疑うのは悪いから、笑って話をそらしてみたり、好きの内容について問うてみたりする。

精神的な交流って何だろう。

人を好きだと思ったときに、理解したいと思い、そこに何かがあると信じる。でも何もなかったらどうすればいいんだろう。わたしが持っていて大切にしているものを、相手が持っていない場合があるかもしれない。
そうしたら交流も何もない。

わたしを好きだというその人が、わたしと言葉の通じない人間である可能性について考える。
心を開くことを、相手が望んでいない場合、わたしは決して開かれない。心と頭と体はそれぞれ別のものだ。
その人に「会いたい」とわたしが思うとき、それは頭で思っているのかもしれない。
心が開かれるまでは、体が開かれることもない。

その人がわたしに「好きです」と言うとき、それは頭なのか心なのか。
代替がきくものなら、他の人にしてほしい。

「悲しい」とか「切ない」とか「寂しい」とか、泣けてくるような感情がみたい。
どうしようもないところを見せてくれたら、ちゃんと好きになれるかもしれない。