発酵

2001年8月8日:お味噌屋さんの娘の話。


 味噌の元である大豆を大きな釜で煮るときの匂いが好きだ。鼻腔の奥にたまるのは、母のごとく甘い味である。
 働く若い衆たちのかけ声が聞こえてくる。学校へ上がらない頃は大豆の入った麻袋の上に寝てよく叱られた。わたしは感覚を求めて、布団とシーツの間に本を入れ、木片を入れ、果ては余った客室の畳を剥がして入れた。
 味噌屋の娘だというと必ずくせえと男の子は一歩下がった。
 大仰な身振りがわたしを頑なにした。
 真佐人だってそうだ。一歩さがった後にしかし言った。おみおつけは好きだと小さく言った。口中のくぐもった発音だった。白い顔がいっそう白く血の気をなくしていた。どうして惚れずにいられるのだ。小学5年生の頃だ。おみおつけという単語に彼の家の躾を思った。正しいと形容したくなるようなゆかしい造りの和屋敷を、わたしは通りに見たことがあった。垣根から覗くと池と石灯籠、それに小紋の着物を着た彼の母らしき人物が居た。
 味噌屋という響きは女の子たちには好評だった。
 小さな町は半分その味噌屋で持っているようなものだったから、あらと声をあげ見かけだけはわたしを称えた。早熟な彼女たちはその家庭が何らかわたしの父の恩恵にさずかっていると理解していた。
 陰でささやかれる言葉はその都度違う密告者から聞かされた。そうやって取り入ろうとする者には、町にはない生地の洋服をわざと違うサイズを見繕って与えた。妹は姉の、姉は母のおさがりを着る時代だった。もし密告者が他にそれを譲ったなら友達になろうと決めていた。
 そんな人間が一人も現れなかったことを特に不幸だというつもりはないが。
 真佐人と親しくするのに理由も運命もいらなかった。行動が未来を決定する。そして家が近いという偶然がわたしを助けてくれた。
「奈津ちゃん」
 帰る道すがら、頭ひとつ分背の高いわたしを見上げて、真佐人は呼んだ。
 初夏の空には雲がたちこめ、真佐人は風景に溶け込みすぎて消えてしまいそうだった。蝉の声も聞こえなくなるようだと、わたしは思った。
「さっきの女の子達と遊ばなくて良いの? 何であんなこと言ったの?」
「いいのよ、真佐人ちゃん、今日わたしのおうちに来る約束だったでしょう」
 でも、でもと、なお言い募る真佐人に笑いかけて見せ、フレアスカートが広がる様子を確認しながら走った。
 女の子たちがわたしと居たがるのは、自分の地位を確立せんがためで、それ以上の意味はなく、後にわたしの挙手投足はひとつひとつ陰で並び立てられ笑いの道具になるのだ。そういった空間に慣れているとはいえ、疲れることもある。「あんたたち、つまんないもの」と言葉を投げたときの彼女らの顔が、わたしを喜ばせることもなかったが。
 走るスピードを緩めないまま、遅れがちの真佐人を振り返った。額に汗をかいて、不満そうに眉根をひそめているのが見て取れた。
 わたしと居ることで、真佐人に迷惑がかかるだろうか。あの女の子たちに、なんと囁かれるのだろうか。
 真佐人は特別な人間ではない。小さい体に白く少女のような肌、育ちのよさを窺わせる仕草など、わたしの憧れないものは無かったとしてもだ。目立たないことだけが特徴と言えた。わたしが、最近何につけても真佐人を選ぶことに、周囲は戸惑っていた。
 勝利を唄うように、味噌蔵の白壁に手をついた。ひんやりと固い感触がてのひらから伝わりわたしを落ち着かせた。
 真佐人も胸を上下させながらようよう追いつき、膝を少し折って俯いた。
「うちの蔵なの。味噌をね、発酵させるのよ。ここで」
「へえ。中に味噌があるのかい?」
「鞠ムロというの。入ろう」
 良いのかしらと真佐人はまた目をちらちらと動かした。
 作業場からは少し離れていたので見つかる気遣いはない。大きな扉をふたりで押し、体の分だけ隙間を作った。熱い空気が溢れた。ためらう真佐人の手首を握って引っ張った。
「すごいね…暑いんだね…」
 真佐人の声は小さく掠れた。
 たちこめている味噌の香りはともすると腐臭ともとれたが、真佐人は何も言わなかった。気を遣っているのではなく、味噌蔵に匂いがあるのは当然のことと認識していた。
 わたしは温度調節できるムロのことを説明し、重石をされた大きな桶を背に座り込んだ。高い天窓から入る光にまっすぐ刺された真佐人の顔は、思いもかけない秘密事に輝いているように見えた。
「背中をあてて、ここ」
 知らずわたしの声も密やかになった。子供の頃から遊びつけた蔵だ。今更見つかっても、お咎めがあるはずも無かったのだが。
 真佐人は、言われるままに、味噌の入った桶に背をぴたりと付け、わたしのとなりに座った。
 口を開きかけるのをてのひらで制し真剣な目をして見せると、真佐人は黙って背中に神経を集中させた。
 暑く蒸し、過ぎる時間さえ蕩けるような空間に、小さく小さく、はじけるような音がいくつも重なって響いていた。
 真佐人の顔がゆっくりと綻びた。背中だけでなく腕も貼り付けた。
「音がする。動いてるよ。お味噌」
 わたしは肯いた。喜ぶ様子が素直に嬉しかった。
 奈津ちゃん、と、真佐人が呼んだ。帰り道でのおどおどした物言いとは違っていた。自信のようなものが混ざっていた。
「奈津ちゃん、笑った。笑えるんだ。やっぱり」
 真佐人は、ゆるりと発酵していく味噌を守るように背で抱きながらわたしを見ていた。
「笑ってるのは、真佐人ちゃんじゃない!」
 声が大きくなった。言いながら戸惑った。目の前の人間の顔真似をする赤ん坊のように、わたしも真佐人の表情を追っていたのだろうか。
 ふいに入口から光の筋が伸びた。
 子供の力では難儀した扉が大きく開かれた。
「誰かいるのか?」
 立ち上がると見慣れた髭面が逆光に浮かび上がっていた。
 真佐人はまた目玉を忙しく動かし、状況を把握しようと躍起になっていた。
 わたしは髭の爺に駆け寄った。
 お嬢さんでしたかと、相好を崩す様子に気付かれていないと安堵した。
 そのまま真佐人は捨てておいた。
 蔵の中へ。鞠ムロの中へ。
 夕食を終えたらこっそりと助けに行こう。
 それから聞こう。
 何でわたしと居るのか聞こう。誘いを断らないわけを聞こう。
 部屋へ戻ると、一枚転がった畳の上に新しいシーツを敷き、着替えもせずに横になった。母が夕餉を告げるまでまだ間があった。右に左にと転がるのを止められなかった。
 大豆袋の上の気持よさを、真佐人ならわかってくれる気がした。
 今、真佐人は味噌とともに発酵しているのだと思うと、笑えて笑えて涙が出てくるようだった。

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