コロッケを3つ
握り締めた千円札がくしゃくしゃになったから、葵は立ち止まり丁寧に折り畳んだ。
いつか母が編んでくれた毛糸のポシェットを思い出しても、蝉の鳴く季節である、毛糸は祖母によって箪笥の奥深く仕舞われているに違いなかった。
一枚の紙幣を右手左手交互に握りこんでは、てのひらの汗を黄色のワンピースに擦り付ける。
ひっきりなしに汗が流れるのは炎天のせいばかりではない。
車のクラクションで、自分が横断歩道半ばで立ち止まっているのに気付いた。青信号が点滅している。車の運転席で女性が笑っているのを見る余裕もなく、葵は慌てて渡り切り、そのままの勢いで熱くなっている塀に手をついた。
「やっぱり、ひとりはこわかね」
誰も聞いていない心易さからか、正直なところが口をつく。
心配する祖母に、ひとりで行けると駄々をこねた自分が厭わしいのか、幼いながら眉間に皺を寄せ、不機嫌を呈している。
その首を傾げた後姿を見守るのは母である。
間をたっぷり置いてついていく。母には娘がまだ赤ん坊のように頼りなく思える。幼稚園に行くときだって、手を繋がずにいるとぐずりだすではないか。
葵はそんな母にはまったく気付かない様子である。
小走りで商店街への道を急ぐ。
道筋は難しくない。車通りは多いが、歩道との間は街路樹が植わっている。それに商店街にさえつけば、いつも通っている店ばかりで顔馴染も多い。
魚屋の主人の赤ら顔は鬼のようで、葵には少し恐ろしい。だけど、いつも大きな声で呼び止め、魚や海老の泳ぐのを見せる。きっと今日は、オッ、葵ちゃんひとりでお使いかい、えらかったいねぇと誉めてくれるだろうと葵は思った。
八百屋の妙に背の高い婆やアルバイトの学生の顔も次々と浮かび、緊張していた肩から力が抜けていく。葵は、祖母の真似をして首を大きく回した。前を見て歩きなさいと注意したくてたまらない母のことを知ったら、弾けるように笑うだろう。
いつもは恐ろしくてたまらないシベリアンハスキーのいる門の前でさえ、鼻歌交じりで歩いていったのである。
しかし葵は思わぬところで立ち止まることになった。
横断歩道の向こうには商店街の入口を示す大きな看板が見える。あと一歩のところで足が竦んだのだ。
青だった信号がゆっくりと赤に変り、風圧を感じるほど近くをトラックが通り過ぎていった。
排気ガスに顔をしかめる。
葵は半歩下がった。
突然、そこがいつもの商店街であるという確信を持てなくなったのである。
初めは道もそうだったと、葵は両のてのひらをしっかりと組み合わせて自分に言い聞かせた。ひとりで歩く道は、まるで知らない道のようによそよそしかった。けれど恐怖はすぐ消えた。あの商店街だってそうだ。いつもと同じのはずだ。こわくない。こわくない。
しかし脳裏には、テレビや絵本で見た妖怪や怪獣が渦を巻き、とりわけ葵を怯えさせたのはのっぺらぼうだ。店員も客もすべて顔がなかったらどうしようと、そればかりを思って竦んだ。道を渡ったらきっともう逃げられない。
葵はスニーカーの底を擦らせながら後ずさった。信号はまた青になり、怪訝な顔をした大人が葵を見下ろしながら通り過ぎていく。それも葵にとっては、未体験なことであった。すれ違う大人たちは、目が合うと笑顔で応えてくれる存在だったはずだ。
作業服の男が目の前に座り込んだとき、葵の身体は凍りついた。
男は、細い目を開けられるだけ見開いて葵を見た。白髪の少し混じった頭髪は短く刈り込まれ、父のつけているような整髪料の匂いは微塵もしなかった。
「どうしたんかー」
低い声とともに男が手を伸ばしてきた。
葵は思わず信号を見た。まだ青だ、走ればきっと間に合うと思った。しかし葵にとっては、渡った先も恐怖なのだ。鼻の奥がつんとして涙を伝えた。
「あっ」
高い声がもれたので、葵の視線の先を男が振り返った。
「渡りたいんか?」
葵は無心でかぶりをふった。一点を見つめたままだ。
「ちがう…ちがうん…。おかあちゃん…」
「お母ちゃん?」
男は肩に手をかけ、顔を近づけて問うた。覗き込んだ目の中に涙は盛り上がり、だけど零れることなく留まっていた。
葵は一瞬だけ男を見て、にいと笑ってみせた。
「おかあちゃんがおった!」
葵は走り出した。
(おかあちゃんだ、あの、空色のエプロン。白いスカート。こっち見た。笑っとった)
「おかあちゃん!」
肩で息をしながら葵は叫んだ。道を渡り終えて、ぐるりと周りを見回した。向こう側の歩道に、心配そうに目を細める男の姿が見えた。しかし母はどこにもいない。
街路樹や電信柱の陰まで探したが見つからない。
息が整ってくると、葵は自分が見慣れた商店街の前にいることにようやく気付いた。
入口にあるのは、いつもの八百屋である。のっぺらぼうではなく、しわしわの婆が店番をしているのが見える。嬉しくなって葵はひょいと顔をのぞかせた。
「まー、葵ちゃん、ひとりで来たとねー」
婆が叫んだのを皮切りに、軒を連ねた店から店主たちが続々と葵の周りに集まってきた。さらにその周りを常連客たちが取り囲む。
「もう幼稚園、年長やもん。ひとりで平気」
葵が何か口にするたびに、明るいどよめきが起こった。赤ら顔の魚屋が黄色い歯を見せて笑っていた。
「葵ちゃん魚はいるんか?」
「今日はおとうふだけ。おばあちゃんが忘れたんやて」
魚屋の脇から豆腐屋が顔を出して、一丁でええか! と言って走った。商店街で、葵はアイドルだった。
豆腐を受け取り丁寧にお礼を言ってから、葵は魚屋の前の大きな水槽に両手と額を当て、魚の茫洋と泳ぐ様を飽きずに見ていた。
えらいなあ、えらいなあと繰り返す店主たちは、葵の姿に肯きながら店へと戻っていった。
ひとりでおつかいをすることのいい点は、じっくりお魚を見れること、と葵は思った。もう怖くない。もう何度でもここに来れる。さっきのおじさんも、よく見れば、このちっこいお魚みたいな目をしていた。悪い人じゃないんだ。
葵はずっと傍らで肯いている魚屋に言った。
「おさかなのねー、コロッケ、これで買える?」
右手に差し出したのは、豆腐のお釣りである幾枚かの硬貨だ。
「いわしコロッケのことかいな。買えるけど、葵ちゃん嫌い言うとったやん」
「うん。1個でよかと。ちょうだい」
魚屋は笑顔になって、葵の小さなてのひらから百円玉を1枚摘まむと、コロッケを3つ、新聞紙に包んで差し出した。
「おまけおまけー、内緒やけんね」
言ってる顔は赤い。葵はやはりこの魚屋が好きだと思った。
帰りついたとき、葵の息はあがっていた。
怖かったからではなく、ただ一刻も早く帰りたかった。
後で怒られるとわかっていながら、靴をそろえる時間も惜しく部屋に駆け込んだ。
「ただいま!」
「あらー、早かったわねえ。おかえりなさい、葵ちゃん」
前掛けで手を拭きながら迎えた祖母は、あわただしくテーブルの上に成果を広げる葵の頭を、よしよしと撫でる。
葵は興奮してうまく喋れないようだった。
頼んでいないコロッケを見て、祖母が叱ろうか迷っている間に、葵はすたすたと奥の部屋に歩いていった。コロッケをひとつティッシュに包んで持っている。
畳の匂いのする奥の間には、仏壇があった。
葵はティッシュを広げて、丸いコロッケを供えた。
手を合わせる。でも目は閉じずに写真を見つめている。
その様子を困惑顔で祖母が見ていた。
祖母の肩越しに、葵について戻った母が覗き込んでいる。
穏やかな笑顔だ。
どこからか入り込んだひとひらの風が、蒸した部屋に涼を運んだ。
葵は仏壇に向って言った。
「おかあちゃんの好きな、コロッケ、買って来たよ」
写真の中の母もふんわりと笑い、風はその髪を揺らして、消えた。
12.27th,2004 at 02:39
子供心ってそんなもんだよね。当たり前のものとか自然なことが不思議だったり怖かったりして。
ただその一つひとつはオトナになればなるほど、忘れていくし、今日までたまたま覚えてる記憶の一部分も今のレンズ、つまり常識とか偏見とかあらゆる知識を通してしかみられないから、もう完全には復元できない。
たかこさん、よくここまで書いたね。俺は文章書くってつくづく難しいと思う。りっぱだなぁ。
あと、最後の話の落とし方面白いね。これ、星進一の『ショートショートの広場』に出てきそうな感じがした。
12.28th,2004 at 01:04
ををを! ひさしぶりのかりぷんだ。やほほう。
読んでくれてありがとうーー! 面白いとちょっとでも感じてもらえたなら、とーてーもー嬉しいです。ひょほほーう、って感じで嬉しいです。
もっとずっと子供の視点をちゃんと書きたいと思うのです。動物とか異性とかずっと年上の人とかの視点とかもそうだよね。自分じゃないものすべてが難しい。
でも難しいものほど書くの面白いかもしれない。